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カレンダーに斜線をひいて月日を送る。柱にキズをつけて身長を測る。

こうした記録は、漠然とした時間の流れに区切りをつける。記録の上に過ぎ去った時間が積み重なっていく。

たとえば「皮膚」はもっとも近い「記録」の表面と言える。皮膚のキズや乾きは、内部と外部から再生と保護を繰り返す。

また皮膚が赤くなったり青ざめたりする変化も、私たちの体内を保護している。

塗料を乗せては削る作業も、皮膚のサイクルと同じように起伏を繰り返す。

ヘラで動かす表面が乾いて固まるまで、常に生まれては消える時間がある。

その過程で思いがけない「場所/空間」が立ち上がり、素材がもつ「皮膚の記録」が場所の意識へと運んでいく。

目(視覚)が場所の遠近・光量・地形を捉えるならば、皮膚(触覚)は場所の天候・気温・湿度を捉える。

「目の記憶」と「皮膚の記憶」は互いに交わりながら、「場所/空間」を形作っているのではないか。

遠くの木々の揺れを見ることと、頬に触れる風を感じることは同時に起こっている。

のびちぢみの町

2022.6

はじめて訪れた場所で、“知らない記憶” に出会うことがある。

現在の時間から遠く離れた、場所がもつ記憶。

“記憶”は過去の経験を思い出すことにかぎらない。

”記憶”は場所をとおして思いがけず生まれる。

仙台/宮城 建築マップ 扉テキスト

2022.03

わたしたちは包みすぎてしまう

 

對木さんに散らかったメモを渡した。
道路の車どめ、街灯、トンネル、お地蔵さん、お箸と橋、だんご、木と実。
どこともなく目で追いかけてしまう日常風景にあるもののかたち。

散らかったメモの交換は、どちらからともなく始まり春から夏まで続いた。用紙に描かれた「暗号」は日に日に増えていく。暗号といっても解き明かす秘密の情報があるわけではない。むしろ解きほぐしていく、開けっ広げの暗号。

對木さんの描くメモにはマッサージやストレッチのような作用がある。そこに色を塗っていく時間、線もかたちも私の思考をほぐして放っておいてくれる。” 放っておくこと” は大切なことで、料理でも気になる度にいじくり回さず放っておくようにを教わったことがある。 放っておく時間が様々な事柄の芽を生やして育てる。
こうしてメモの交換を重ねるうちに、互いにどちらが描いたのか見分けがつかなくなっていった。

人が作った道具や建物も、環境の変化と共に変わる木々や野菜の腐敗も、それぞれに必要なサイクルを持っている。包んだ荷物を誰かに届けたいときも、荷物を運ぶ乗り物やその日の天候によって速さは変わってくる。かつて通信手段のひとつだった伝書鳩も、飛行ルートに迷ったり猛禽類などに襲われてしまえば、そのメッセージが届けられることはなくなってしまう。メッセージが届いたことが簡単にわかる現代の安心と引き換えに、メッセージが無事に届くかわからずに手放す切実さを知ることは少ない。

とはいえ、この往復メモはインターネット通信とご近所のおすそ分けの安心感だけではない、不確かさ・不可解さに支えられている。明解なメッセージではない「暗号」のなかに、その時々によって見たいものを見ることもあれば、見たことのないものも見えてくる。なんでもないメモの網目にひっかかるものは、昨日~今日~明日と常に変わっていく。

私が目で追いかけている日常風景にあるもののかたち。それは名前を持った「姿かたち」そのものを見ているのではなく、そのリズム/サイクルの途上に、かろうじてとどまっている姿かたちの「時間」を見続けているのかもしれない。例えば 1 枚の風呂敷は、包むものに寄り添って姿かたちを変える機能だけではなく、旅支度~運搬~荷解きまでの「時間」も包んでいるような気がしてくる。

紙に記し封筒に包む。切手を貼ってポストに入れる。ついでにシロップ、ジャム、とうもろこし、パンも包んで運んでしまおう。
また風呂敷を広げては、包みすぎてしまう。

冊子「pen pal code」掲載テキスト
2人展「トゥーマッチな風呂敷」

2021.10

Finders Calendars  

 

私たちの身の回りには、すでにあらゆるものに名前がつけられている。食品や植物から土地や月日まで。それでも私たちはあらかじめ名づけられたものだけを見ているのではなく、むしろ名づけられる前の情報に遭遇していることのほうが多い。それは皮膚が記憶する食料の熟度や水の温度、毛穴が読みとる冬の空気や木々の香りであったりする。環境が知らせる情報は季節や安らぎだけではなく、ときに危険や恐怖までも含まれている。色の名前がついた絵具材も、空気に触れさせ画面に定着すると一旦名前を失い姿を変える。その当たり前の現象は名づけの条件をすり抜け、身体と環境の関係のように扱う者と材料の間にもその都度あたらしい条件が生まれている。

2021.01

見ているようで見ていない、

わかっているようでわかっていない世界で

 

 

わたしたちは日々なにかを、見ているようで見ていない。

たとえばいま、目を閉じて、閉じる直前まで見ていたものを思い浮かべようとしても、

すべてを再現することはむずかしい。

よく知っているはずのあの人の顔だって、そのなにを見ていただろうか。

毎日眺めているはずの窓外の景色だって、そのどこを見ていただろうか。

 

わたしたちはまた、日々なにかの名前を呼び、新しい名前をつけもする。

そうすることで、名指した/名づけた人を、ものを、場所を、わがものにしたと思い込む。

ときには名前だけが情報としてやりとりされ、それだけでわかったような気になる。

けれど、名前を使わずに、その対象を描写してみようとすると、

実際に、それがこの世界のどこかに存在するというリアリティを表現してみようとすると、

いったいそのなにをわかっていたのか、わからなくなる。

 

実は見ていないこと、実はわかっていないことが、悪いわけではない。

むしろ、視覚のそのたよりなさ、

名前という概念のその不確かさに気づくとき、

世界はこれまでとは違うすがたを見せてくれる。

 

 

民佐穂は、視覚芸術の最たる形式である絵画を表現手段として選びながらも、

わたしたちが見ているようで見ていない、

わかっているようでわかっていない、ということを、

そのようにしてしかとらえることのできない世界を、描き出す。

そうして生まれたイメージはまた、視覚に限定されない感覚を呼び覚ますとともに、

対象を名づけ以前の状態へと還元する。

 

画家がすぐれた発見者=Finderであるとすれば、

それは、対象のすがたを克明に描き出すことができるからではなく、

日々の生活のなかで、繰り返される季節のなかで、

何度でも、世界と新しく出会うことができるという意味においてである。

 

かつて、「新月が出たぞ!」と叫んでみなに知らせることを意味したラテン語の「Calo」は、

暦=Calendarの語源となった。

ここに集まった小さな絵画たちは、声高にではないけれど、

新しい年の始まりに、新しい世界のすがたを、わたしたちに知らせてくれている。

 

松山聖央(武庫川女子大学生活美学研究所)

2021.01

風の振る舞い

Behavior of  Wind

 

風は吹くだけのこと。香り、塵、菌類等の情報を運び、葉や髪に触れたときには過ぎ去ってしまう。森林を夜通しゆらす威嚇的な力を示す一方で、翌朝、樹木の隙間から流れる微風は前触れもなく私たちを落ちつかせる。

長期的な風化により都市が破壊され、粉々に砕かれたとしても、地上の風は無時間的な静止状態に逆らい、物質同士の繋がりを賦活しうる地球の能動性の力を私たちに意識させる。

制作の基底面を地表と仮定するならば、風によってもたらされる様々な位相のぶつかり合いは、常に固有な条件を私たちの目前に浮かび上がらせる。

 

Leaves fluttering in a breeze. The wind carries minute information such as scents, dust, and fungi, and leaves right after it ruffles our hairs. It would show the menacing power of swaying the forest all night long, but in the next morning, the breeze through the gaps in the trees gently strokes the cheek.

 

Long-term weathering may destroy and shatter cities. But the wind on the ground will remain static for no time. It makes us aware that the active force of the earth will keep on invigorating the connection among matter. 

Supposing that human productivity takes place on the surface of the Earth, the wind renders the collision of various phases, thus incessantly brings out particular conditions right in front of our eyes.

2020.09

点景 ―むかしと未来の川のほとりに

 

東京は武蔵野台地と呼ばれる平野に住んでいる。このあたりは河川からも遠く、玉川上水からの細い分水路が身近な水辺だ。

水路を歩いて辿っていると、足元のすぐそばに遠く離れた時代と場所に流れる川のほとりを想像できる。

“どこまでもつづく原野”武蔵野に残る雑木林と、東京都の下に失われた河川の数々。

“大昔はすべて一円の湖水なり”ふるさと遠野盆地を形づくった河川のむかし。

盛岡の北上川にそそぐ秋田駒ヶ岳から流れる竜川の記憶。

遠いむかしの水源は現在の水路をつくり、現在の水路は未来の水辺をつくっている。

今日もむかしと未来の川のほとりに立ってみる。

2020.06​

散歩の短さについて

本展では「散歩」をテーマに掲げています。無目的に散らし歩いているとき、散歩者の主体は多層化され、視点は遠方の情報から足元の雑草や水滴まで拡大縮小を繰り返し、絶えず揺れ動いています。

それは、短さや無目的からくる辺境性や、消えたり現れたりする揺らぎを感じることから始まります。例えば、山の雪解けが馬のかたちになったら種をまくことや、カエルの鳴き声が明日は雨が降るかもしれないという予兆であったり。小さな冗長的な出来事からは、自然や共同体への受容性・憑依性を持つ日本人の主体のあり方も見えてきます。

本展は、実際に「散歩」をして見えてきたものからの着想や、身近な事柄を取り上げ散歩者のような方法・視点からの制作物など、さまざまな媒体で構成されています。6人によって現された散歩路をぶらついてみてください。

Tono Obon Holiday  (movie 45 seconds)

空に向けて垂直に立つ木と旗は祖霊を迎える目印になる。

初盆から3年間はその家に迎灯篭木(ムカイトロゲ)が掲げられる。

出身地であり民俗学のメッカ岩手県遠野市のお盆の夏休み記録。

110年前の1909年8月にその地を散歩した柳田國男が見た風景と、110年後の2019年8月に帰省散歩した風景が重なる。

故郷の風景の中に入ること/離れることについて。

2019.9

Touch of Scenery  風景の感触

 

風景とは、その土地固有のものであると同時に別な土地を想起させることができる。

絵画もまた、建物の壁の一部として存在すると同時に壁を突き抜け、別な場所をまなざすことができる。

A scenery evokes autochthonous things and the other places simultaneously.  

Paintings also exist as a part of an architecture wall and it evokes to an imagine of other places from going through a wall simultaneously.

海岸の山田にては蜃気楼年々見ゆ。常に外国の景色なりと云ふ。見馴れぬ都のさまにして、路上の車馬しげく人の往来眼ざましきばかりなり。年毎に家の形など聊も違ふこと無しと云へり。 - 柳田国男『遠野物語』106話

In Yamada, on the coast, a wonderful scene appears every year. It is said that it is usually the image of a foreign country. It is like some unknown capital with many carriages in the streets and people coming and going. It’s quite amazing. It is said that, from year to year, the shapes of the houses and other things do not change in the least.

- Kunio Yanagita, “The Legends of Tono” chapter 106

2019.4

Street on Canvas  画面上の路上

実在の路上写真や19~20世紀の絵画に描かれた場所からモチーフを抽出し、 実在しない新たな路上を画面上に組み立てる試み。

ある時代のある場所に実在した路上は、印刷物やデジタル画面上で知覚され、絵具によって「画面上の路上」へ移動していく。

過去と現在を画面の中で行ったり来たりしながら、かつて実在した路上から遠く離れた今ここに新たな路上が現れてくる 。

絵画には場所/領域/フィールドとしての側面がある。

絵画というメディア/絵具という道具をとおして、 「今ここから遠い場所までの距離」を捉えなおしたい。

​2018.7

地図と目印 Maps and Landmarks

 

ランドマークとは、ある地域を特徴づけ、土地の方向感覚を助けてくれる目印である。

自分が今どこにいるのかわからないときに、目印となる建物や塔、山や海、大きな木や地面の凹凸は頼りになる。
絵画も、今どこにいて何を見ているのかを示す時代や場所を超えた目印と言える。

目印が見つかれば、そこから道がのびていき、やがてあたらしい架空の土地があらわれる。
ひとつの絵はひとつのランドマークになり、架空の土地に立つための地図となる。

Landmarks are signs that characterize a region and help the sense of direction of the land.
When you don't know where you are now, you can rely on landmarks, towers, mountains and oceans, large trees and ground irregularities.
A picture is a landmark that transcends the times and places that show you where you are and what you are looking at right now.
If the mark is found, the way extends from there, and a new, imaginary land appears.
One picture becomes one landmark, and it becomes a map to stand on a imaginary land.

2017.12

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